MONONOFU登場人物 / 最後の武士(もののふ)達

箱館奉行並、砲兵頭並 中島三郎助

中島三郎助

Nakajima Saburosuke / 1821 - 1869

1821(文政4)年、相模国浦賀奉行所与力中島家生まれ。1849(嘉永2)年、浦賀奉行与力となり、アメリカ・ペリー艦隊来航時に、アメリカ側使者の応対を勤めた。1855(安政2)年、長崎海軍伝習所の第一期生となり造船学・機関学・航海術などを修め、築地軍艦操練所教授方出役に任命された。その後、与力の職を長男恒太郎に譲ったが、戊辰戦争勃発後に、榎本武揚らと蝦夷地に渡り箱館戦争に参戦した。蝦夷地仮政権で箱館奉行並・砲兵頭並を務め、千代ヶ岡陣屋守備隊長として奮戦した。新政府軍の攻撃にも陣屋で抵抗したが、6月25日(旧5月16日)に、長男恒太郎・次男英次郎・腹心柴田伸助らと共に戦死した。享年49歳。

 

1821(文政4)年生まれ。1849(嘉永2)年に浦賀奉行与力となり、嘉永6年のアメリカ・ペリー艦隊来航時に、アメリカ側使者の応対を務めた。1855(安政2)年、長崎海軍伝習所の第一期生として、造船学・機関学・航海術などを修得し、築地軍艦操練所教授方出役を務めた。1868(慶応4)年の戊辰戦争では、榎本武揚らと品川沖を脱走し、蝦夷地に渡り箱館戦争に参戦した。蝦夷地仮政権では、箱館奉行並・砲兵頭並を務め、五稜郭の前衛となる千代ヶ岡陣屋の守備隊長として奮戦した。新政府軍が箱館市中制圧後も陣屋で抵抗し、1869(明治2)年5月16日に、長男恒太郎・次男英次郎・腹心柴田伸助らと共に戦死した。享年49歳。

 

浦賀奉行与力として、1853(嘉永6)年のアメリカ・ペリー艦隊来航時に、アメリカとの応接を務めた。長崎海軍伝習所へ入所し、後に築地軍艦操練所教授方出役を務めた。戊辰戦争勃発後に、榎本武揚らと蝦夷地に渡り箱館戦争に従軍した。蝦夷島政権では箱館奉行並として、箱館本陣で諸外国との交渉にあたった。1869(明治2)年4月1日に砲兵頭並の武官へ転出し、千代ケ岡陣屋の守備隊長に就いたが、5月16日の新政府軍の攻撃により、千代ケ岡陣屋で息子らとともに戦死した。中島三郎助は、俳号「木鶏」の俳人としても知られ、箱館で俳人孤山堂無外と出逢い、咬菜園での句会には三郎助も参加していたようである。

箱館奉行並、砲兵頭並 中島三郎助 画像出典:函館市中央図書館蔵

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