Honda Koshichiro / 1847 - 不明
1845(弘化2)年生まれ。祖父本多八左衛門の家督を継ぎ将軍警護の任につく。戊辰戦争の際は、大鳥圭介に従い、伝習隊として各地の戦闘に参加。1868(明治元)年、鷲ノ木に上陸後、人見勝太郎とともに箱館府へ嘆願書を届ける使者となる。箱館戦争勃発後は、伝習歩兵隊を率いて峠下の戦いや木古内の戦いで新政府軍を撃破する。
1845(弘化2)年生まれ。幕府の士官として歩兵頭を務める。戊辰戦争では大鳥圭介の腹心人物といわれ、伝習隊を率いて南関東から箱館まで各地を転戦した。木古内口の戦いにおいては、伝習歩兵隊を指揮して新政府軍を撃退している。
幕末の旗本で将軍の警護を務める新番に就く。戊辰戦争では伝習隊第二大隊長として約500名を率いて大鳥圭介に従い、関東各地の戦闘に参戦した。箱館戦争終結後は弘前藩預かりとなる。明治時代に入ると静岡藩により設立された沼津兵学校の体育教官となり、その後陸軍大尉まで勤め上げた。享年60歳。
名は忠直。旧幕府陸軍・伝習隊においては、大鳥圭介の股肱としてその軍略を支えた。伝習隊第二大隊隊長を務めるも、慶応4年4月の明神山(現:栃木県宇都宮市)の戦いにおいて負傷し、隊長職を大川正次郎に譲っている。鷲ノ木上陸後は人見勝太郎とともに箱館府への使者を務めるも、峠下村にて夜襲を受ける。これが翌年まで続く箱館戦争のきっかけとなった。蝦夷島政府樹立後は歩兵頭・第二列士満隊長。