MONONOFU登場人物 / 最後の武士(もののふ)達

蝦夷地仮政権<br>陸軍奉行並箱館市中取締<br>旧幕府 陸軍奉行並 土方歳三

土方歳三

Hijikata Toshizo / 1835 - 1869

1835(天保6)年、武州多摩郡石田村生まれ。1863(文久3)年、幕府兵募集に参加し上京。同郷の近藤勇と新選組を結成し、副長を務めた。戊辰戦争時には鳥羽・伏見の戦い、東北戦争で各地を転戦し、仙台で旧幕府軍に合流して蝦夷地へ渡り、箱館戦争へ参戦した。蝦夷地上陸直後の1868(明治元)年10月22日、箱館進攻へ出撃。鷲ノ木から砂原、鹿部、川汲峠、湯川村経由の間道部隊を率いて、箱館へ進軍した。引き続き11月には、松前・江差の攻略部隊を率いて進軍して、蝦夷地平定に大きく貢献した。蝦夷地仮政権の陸軍奉行並および箱館市中取締裁判局頭取に就任して、1869(明治2)年3月の宮古湾奇襲攻撃や大野二股口での戦闘に奮戦した。同年5月11日(旧暦)、箱館や弁天台場を奪回・救出のため、一本木関門の突破をはかり、箱館市中へ向う途中で銃弾を受けて戦死した。享年35歳。

 

1835(天保6)年、武蔵国多摩郡(東京)生まれ。試衛館にて天然理心流を極めた。京都では近藤勇と共に壬生浪士組を結成。後に幕府より治安警護を任された新選組の副長となる。戊辰戦争では榎本ら旧幕臣達と蝦夷地に上陸すると、箱館、松前、江差へと進軍し活躍したが旧幕臣による暫定政権樹立後、明治政府軍に攻め込まれ、五稜郭防衛戦中に狙撃され34歳で戦死した。

 

1835(天保6)年、武州多摩郡石田村(現東京都日野市)生まれ。1863(文久3)年、幕府兵の募集に参加し上京。同郷の近藤勇と新選組を結成し、副長を務めた。会津藩の指揮下、京都の警備に活躍したが、鳥羽・伏見の戦いに敗れ、会津や仙台を転戦した後、旧幕府軍に合流し、蝦夷地で箱館戦争に参戦した。1868(明治元)年10月の蝦夷地上陸後に海岸線・川汲峠を進撃する間道部隊を指揮して箱館へ入り、その直後に松前・江差方面の攻略部隊を率いて蝦夷地平定を成し遂げた。蝦夷地仮政権では陸軍奉行並・箱館市中取締役に就任し、翌1869(明治2)年3月の宮古湾奇襲攻撃や大野二股口での戦闘に奮戦した。同年5月11日、弁天台場・箱館を救助のため一本木関門(現若松町付近)の突破を図ったが、箱館市中へ赴く途中で銃弾を受けて戦死した。享年35歳。

 

1863(文久3)年、幕府兵募集に参加し近藤勇と新選組を結成し、副長を務めた。戊辰戦争時には鳥羽・伏見の戦い、東北戦争で各地を転戦し、仙台で旧幕府軍に合流して蝦夷地へ渡り、箱館戦争へ従軍した。蝦夷地上陸後、箱館進攻、松前・江差方面の攻略を指揮し、蝦夷地平定後は蝦夷島政権の陸軍奉行並、箱館市中取締裁判局頭取に就任した。箱館市中警備の新選組を指揮する一方で、俳号「豊玉」として句会にも参加するなど、文人としての側面も持ち合わせていた。宮古湾奇襲作戦や大野二股の戦闘に奮戦したが、5月11日の新政府軍箱館総攻撃時に戦死した。

 

武州多摩郡石田村(現東京都日野市)の豪農の家に生まれる。家伝の「石田散薬」の行商の傍ら、天然理心流の「試衛館」に入門し剣の腕に磨きをかけた。1863(文久3)年、将軍上洛の護衛としての幕府兵の募集に、「試衛館」の仲間と参加。京都に於いて「京都守護職」である会津藩の指揮下で「新選組」を結成。副長として「池田屋事件」を始めとする尊皇攘夷派に対する苛烈な取締りで恐れられた。戊辰戦争の緒戦である「鳥羽・伏見の戦い」での幕府軍の敗北後、実戦に於ける近代的装備の重要性の認識から、逸早く、自ら洋装に切り換えたとされる。  新政府軍の東進、戦線の北上に伴い北関東、東北地方を転戦、新政府軍に抵抗する会津藩、庄内藩などによる東北の列藩同盟軍とともに戦い続けたが、東北諸藩の敗色濃厚となる中、蝦夷地を目指して仙台湾に寄港していた榎本武揚率いる旧幕府艦隊に身を投じ、北の大地に渡った。蝦夷地上陸後は、五稜郭への進軍や、松前、江差方面への攻略部隊を指揮し、蝦夷地からの新政府勢力の駆逐に貢献した。士官以上の投票により編制された暫定的な行政機構に於いては「陸軍奉行並」および「箱館市中取締裁判局頭取」という、陸軍と警察の要職を兼ねた。  1869(明治2)年の春を期して開始された新政府軍による蝦夷地進攻に際しては、北上する新政府艦隊に対する宮古湾での「甲鉄艦」奪取作戦や、江差山道・二股口での銃撃戦での水際立った指揮など、近代戦の指揮官としての能力が開花したが、同年5月11日、新政府軍の箱館総攻撃により制圧された市街地の奪還と弁天岬台場に孤立した友軍の救出の為に出撃、箱館市街への突入を図り、銃弾を受けて戦死したとされる。彼の戦死の報せに、母を失った子供のように兵士達が嘆き悲しんだという記録からは、「鬼の副長」と味方からも恐れられた京都時代とは異なる、厳しくも優しい土方の姿が浮かぶ。  「鳥羽・伏見の戦い」から東北地方の戦場を駆け、蝦夷地・箱館で散った土方歳三は、戊辰戦争の緒戦から最終決戦まで、ほぼ全ての戦闘の最前線で兵士とともにあった。土方歳三こそ、戊辰戦争を戦い抜いた全てのサムライ達を体現する存在であり、正に「最後の武士(もののふ)」であった。

 

1835(天保6)年、武州多摩郡石田村生まれ。1863(文久3)年、幕府兵募集に参加し上京。同郷の近藤勇と新選組を結成し、副長を務めた。戊辰戦争時には鳥羽・伏見の戦い、東北戦争で各地を転戦し、仙台で旧幕府軍に合流して蝦夷地へ渡り、箱館戦争へ参戦した。蝦夷地上陸直後の1868(明治元)年10月22日、箱館進攻へ出撃。鷲ノ木から砂原、鹿部、川汲峠、湯川村経由の間道部隊を率いて、箱館へ進軍した。引き続き11月には、松前・江差の攻略部隊を率いて進軍して、蝦夷地平定に大きく貢献した。蝦夷地仮政権の陸軍奉行並および箱館市中取締裁判局頭取に就任して、1869(明治2)年3月の宮古湾奇襲攻撃や大野二股口での戦闘に奮戦した。同年5月11日(旧暦)、箱館や弁天台場を奪回・救出のため、一本木関門の突破をはかり、箱館市中へ向う途中で銃弾を受けて戦死した。享年35歳。

蝦夷地仮政権<br>陸軍奉行並箱館市中取締<br>旧幕府 陸軍奉行並 土方歳三 画像出典:函館市中央図書館蔵

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