MONONOFU登場人物 / 最後の武士(もののふ)達

旧幕府軍陸軍奉行 大鳥圭介

大鳥圭介

Ootori Keisuke / 1832 - 1911

蝦夷地上陸後に大野・七重での戦闘の後、箱館に進攻、10月26日に五稜郭を占拠するなど、陸軍部隊の総指揮者として箱館を制圧した。1869(明治2)年5月11日の新政府軍箱館総攻撃時に、七重浜で戦闘指揮を行ったが敗北して榎本・松平らとともに新政府軍への降伏申し出に臨んだ。

 

1832(天保3)年、播磨国赤穂郡赤松村の生まれ。大阪の緒方洪庵の適塾で医学と語学を学び、江戸の坪井塾で塾頭となり西洋学を習得、江川塾に招かれて兵学教授を勤めた。1858(安政5)年に尼崎藩に出仕、その後1859(安政6)年に蕃書調所へ出仕した。1861(文久元)年に御鉄砲方附蘭書兵書取調出役、開成所教授を兼務。1865(元治2)年に陸軍所へ出仕、富士見御宝蔵番格を歴任し、1867(慶応3)年に伝習隊創設に参加、歩兵隊長となった。戊辰戦争では、旧幕府陸軍伝習隊を率いて北関東・会津を転戦し、仙台で榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流して蝦夷地へ渡った。1868(明治元)年12月3日(旧10月20日)に蝦夷地上陸後、大鳥圭介隊は大野・七重の戦闘に勝利し、箱館に進攻して12月9日(旧10月26日)に五稜郭を占拠した。蝦夷地平定後に仮政権の陸軍奉行に就任し、五稜郭の軍事的強化の指揮にあたった。翌年6月20日(旧5月11日)の新政府軍箱館総攻撃時に、七重浜での戦闘を指揮するも敗北し、五稜郭で降伏した。東京で投獄、1872(明治5)年に釈放され北海道開拓使に出仕後、工部大学校校長、元老院議官、学習院院長兼華族女学校校長、駐清国特命全権公使、枢密顧問官などを歴任した。1911(明治44)年に78歳で没した。

 

大鳥圭介は、箱館戦争終結後に投獄され、1872(明治5)年に特赦となり、明治政府へ出仕、左院少議官、開拓使5等を歴任し、大蔵小丞の時に北海道巡視を行い、谷地頭の丘上を実地踏査するなど「碧血碑」の建立場所を選定した。

 

1833(天保4)年、播磨国の医者の子として生まれる。徹底した主戦論者であり、自身の編成した伝習隊を率いて新政府軍に抵抗する。仙台で旧幕府軍に合流し歩兵差図役頭取として旧幕府軍の本隊を率いる。戊辰戦争の記録を『南柯紀行』として記し、鷲ノ木上陸時の様子や旧幕府軍の動向について詳細を伝える。

 

1832(天保3)年、現在の兵庫県にうまれる。1867(慶応3)年、幕府の歩兵奉行となり伝習隊を結成する。翌年4月、旧幕府軍が市川(千葉県)に集結すると総督となり各地を転戦する。木古内口の戦いでは、薬師山の頂で白馬に跨り全軍を指揮したと伝えられている。

 

播磨国赤穂郡(現兵庫県上郡町)の医家に生まれる。緒方洪庵などに蘭学、医学を学び、西洋兵学の講師も務めた。1866(慶応2)年に幕臣となり、開成所の洋学教授、次いで幕府陸軍の歩兵奉行へと累進、西洋式訓練による「伝習隊」を編成する一方で、築城や砲術に関する指南書も著し、自ら考案した西洋式活字により印刷・刊行するなどの技術者でもあった。大政奉還、江戸開城後、伝習隊他の幕府軍の諸隊を糾合し、総督として北関東から東北地方を転戦、土方歳三とともに会津藩と連携して新政府軍に抵抗したが、蝦夷地を目指して仙台・松島湾に集結した旧幕府艦隊に加わった。蝦夷地上陸後は陸軍を率いて新政府の守備隊を破り五稜郭に入城。道南を制圧・平定後は、旧幕府軍の暫定的な政権に於いて陸軍奉行に選出され、新政府軍の反撃に備えて各地の拠点を視察、防備の強化に取り組んだ。  翌明治2年春からの新政府軍の進攻に対して、津軽海峡に面した海岸部の拠点での防戦を指揮するも、新政府軍の海陸合同の攻撃と増援には抵抗できず五稜郭へ撤退。1869(明治2)年5月18日、榎本武揚らとともに新政府軍の軍門に降った。東京へ送られ投獄されるも、出獄の後は開拓使に出仕を命じられた他、新政府の要職を歴任している。  負け戦でも表面上は意に介さず、降伏に際しても「死ぬのはいつでもできる。ここは一番、降参と洒落てみよう」と皆を諭した精神は、西洋近代の学問を学んだ合理的思考の表れか。しかし後に、戦没した旧幕府軍の同志を慰霊する「碧血碑」の建立に榎本らと共に奔走した思いは、彼もまた「最後の武士(もののふ)」であった証である。

旧幕府軍陸軍奉行 大鳥圭介 画像出典:函館市中央図書館蔵

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