Fujiwara Yasushige / 不明 - 1868
初名は重太。後に崇広より「主馬」の名を賜る。エトロフ勤番などを務めた後、嘉永3年に佐久間象山の「五月塾」に入塾し西洋流砲術・築城術を学ぶ。帰藩後砲術師範に就任、以降藩は海防軍備の西洋化に大きく舵を取ることとなる。対外国ではペリー艦隊応接・エゲリア号事件出役、藩軍制においては御旗奉行・陣屋備頭を務めるなど中核を担ったが、正議隊のクーデターの後、忽然と藩史から姿を消す。