MONONOFU登場人物 / 最後の武士(もののふ)達

蝦夷共和国総裁 榎本武揚

榎本武揚

Enomoto Takeaki / 1836 - 1908

通称は釜次郎。1854(安政元)年、蝦夷御用掛堀利熙の小姓として蝦夷地・樺太を巡検。1856(安政3)年に長崎海軍伝習所に入所し、後に築地軍艦操練所教授に就任した。1862(文久2)年、オランダ留学に派遣され、兵制・法律・器械学を修め、1867(慶応3)年、幕府がオランダに発注した開陽丸で帰国し海軍副総裁に任命された。大政奉還後、1868(慶応4)年8月、旧幕府艦隊を率いて品川沖を脱出し仙台で旧幕府陸軍と合流、10月20日(旧暦)に蝦夷地へ上陸した。明治新政府へ蝦夷地開拓の嘆願を出すが叶わず、五稜郭占拠や松前方面を攻略し蝦夷地南部の平定を果し、旧幕府軍の蝦夷地仮政権総裁に選出された。翌2年5月18日に新政府軍へ降伏し、東京で投獄された。1872(明治5)年に特赦で出獄した後、開拓使へ出仕し、二年後には海軍中将となり、ロシア特命全権公使を務めた。この後、逓信、農商務、文部、外務の各大臣を歴任して子爵となった。1908(明治41)年に死去。

榎本武揚は、箱館戦争終結後に投獄され、1872(明治5)年に特赦となり明治政府開拓使へ出仕した。「碧血碑」建立時には駐露特命全権公使であったため、建設費用3,160円のうち250円を拠出して大鳥圭介へ託したとされる。また、碧血碑の建設地は当初、実行寺が開拓使支庁から払い下げを受けていた土地を、1882(明治15)年に榎本が実行寺から買い取り、榎本家の所有とした。その後1956(昭和31)年に榎本家から函館市へ寄付され、現在に至っている。

 

通称は釜次郎。1856(安政3)年に長崎海軍伝習所へ入所、後に築地軍艦操練所教授を務めた。1862(文久2)年、オランダ留学に派遣され兵制・法律・器械学などを修め、1867(慶応3)年、幕府がオランダに発注して建造した開陽丸で帰国し、海軍副総裁に任命された。 1868(慶応4)年8月に 旧幕府艦隊を率いて江戸を(品川)を脱出して蝦夷地へ渡り、蝦夷地南部を平定、旧幕府軍の蝦夷島政権の総裁となった。翌明治2年5月18日に新政府軍に敗北・降伏し、東京で投獄されたが出獄後は開拓使へ出仕、海軍中将となり、ロシア特命全権公使を務めた。後、逓信・農商務・文部・外務の各大臣を歴任して子爵となった。

 

通称は釜次郎、号は梁川。蝦夷御用地掛堀利熙の小姓として蝦夷地・樺太を巡検。長崎海軍伝習所に学び、築地軍艦操練所教授に就任した。1862(文久2)年、オランダ留学に派遣され、帰国後、海軍副総裁に任命された。1868(慶応4)年8月に旧幕府海軍を率いて蝦夷地へ渡り蝦夷嶋政権の総裁に選出された。政権樹立後は、箱館本陣において政権運営にあたる一方、咬菜園に出入りして書を認めるなど、文人としての才能も豊かであった。新政府軍との戦闘に敗れ、明治2年5月18日に五稜郭で降伏し、東京で投獄されたが、出獄の後は開拓使へ出仕し、海軍中将としてロシア特命全権公使を務め、逓信、農商務、文部、外務の各大臣を歴任した。

 

長崎海軍伝習所に学び、その後オランダに留学した。帰国後は開陽丸艦長となる。戊辰戦争中、開陽丸を旗艦とする幕府艦隊を率いて蝦夷地へ向かい、箱館を占領し暫定政権を樹立。明治政府軍の攻撃により降伏後、投獄されるが、その能力を買われ特赦後は明治政府に仕えた。逓信大臣、文部大臣、外務大臣などを歴任した。

 

1836(天保7)年10月5日(旧8月25日)、江戸下谷御徒町柳川横町に生まれる。オランダ留学で造船技術を学ぶ。旧幕府軍の抗戦派をまとめ総帥となり指揮をとる。箱館戦争終了後に投獄されるが、明治5年に放免され開拓使として尽力。明治6年に竣工した森桟橋の建築に助言をしたと伝えられる。

蝦夷共和国総裁 榎本武揚 画像出典:函館市中央図書館蔵

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