Amano Shintaro / 1848 - 1869
古屋佐久左衛門・永井蠖伸斎らと共に衝鋒隊として旧幕府軍に入る。箱館戦争では一個中隊を率いて鷲ノ木村に堡塁を築く。道南各地で転戦していたが、1869(明治2)年6月9日(旧4月29日)の矢不来での戦闘において艦砲射撃の中戦死する。
慶応4年正月の信州鎮撫隊(衝鋒隊の前身)立上げからの隊士で、その結成に際しては弁舌を以て信越諸藩の説得に功があったという。古屋作左衛門・今井信郎らとともに北陸・中部を転戦。同年8月以降は伝習隊らと合流、会津での戦いの後蝦夷地へと渡る。明治2年正月以降は鷲ノ木の新築砲台群の守備にあたる。4月10日、古屋・今井・永井蠼伸斎ら衝鋒隊同士と共に間道からの乙部攻めを試みるが榎本武揚に制され中止。この兵はそのまま大野の守りに就くが、天野のみ部隊を率い矢不来に進駐。4月29日、陣中にて壮絶な戦死を遂げる。『説夢録』によればこの時年21、永井と並び「戦功屢(しばしば)なり」と讃えられている。